スキーエアリアル 田原直哉 すべてをかけた五輪の結果は?

スキーエアリアル 田原直哉 すべてをかけた五輪の結果は?

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体操からスキーのエアリアルに転向して、オリンピックを目指していた、田原選手予選敗退残念でした。体操をかじっていた私としては注目していたんですが、お疲れ様でした。

競技を変えて挑んだ初のオリンピック

37歳にして初めてたどりついた、平昌冬季五輪。

フリースタイルスキー男子エアリアル予選に出場した田原直哉(ミルキーウェイ)は「戦える準備はできていた。勝負なので悔しいのが一番」。長年の苦労が実った感慨よりも、勝負へのこだわりが口をついた。

人生をかけた37歳の挑戦は、19位

田原選手は、「もうちょっと良いところを見せたかった」と表情を曇らせました。

スキー板を履いてジャンプ台から空中に高く飛び上がり、宙返りの回転数やひねり、着地の精度などの採点で競うエアリアル。

この日の予選は25人が出場した。上位6人が決勝進出を決める1回目で、田原は後方3回宙返り4回ひねりの「バックフル・ダブルフル・フル」の着地をしっかりと決めた。

だが、やや前のめりになったのが影響したか、103.98点と得点が伸びず、「採点競技なので言っても仕方ないけど、少し辛すぎるかな」と嘆いた。上位12人による決勝進出を狙ったが、1本目は17位にとどまりました。

1回目で通過できなかった19人で争われた2回目は、1回目より難度の高い技で勝負に出たものの、踏み切りでミスをして、着地で背中を雪面に打ちつけました。

着地に失敗して望みを絶たれ、「悔しい」を連発しました。

本人もツイッターで大会にかける思いと、結果を語る!

30年の競技生活。
オリンピックにたどり着くまでに沢山辛いこともあったし、楽しいこともあった。
これらのすべての要素は僕を強くしてくれた。
競技をやってきたことで沢山の人に応援してもらえたこと、沢山の人に出会えたこと、沢山の仲間、チームメイトこれらは間違いなく僕の財産です。
この舞台を楽しみにしてくれていた
おばぁちゃん、歩夢、市名さん、みといてね👍
ここまできたらやっぱりぶら下げて帰国したい!
丸っこいやつを🥇
支えてくれたすべての人への感謝を胸に明日の予選、明後日の決勝戦ってきます💪
母、兄、妹、日本から応援よろしくね🙌
父、現地で迷子にならないように😂

これだけが心配😞

終了後のコメント

結果はご存知の通り予選落ちでした。やり切れた思いもありますが、1本目の点数に動揺し、2本目の失敗が自分の弱さの全てだと痛感いたしました。
でも、ここまで戦えたこと、すべての応援してくださった方に感謝します。
本当にありがとうございました。
#エアリアル #平昌オリンピック

田原選手のルーツは、体操五輪にかける熱い思い!

夢に見た五輪の舞台だった。8歳で始めた体操で、20歳の時にナショナルチーム入り。

ただ、2004年アテネ五輪の代表を逃した後から、人生は思わぬ方向に進んでい来ました。

右肩を故障し、06年に引退。失意の中で出会ったのがエアリアルでした。

きっかけは、五輪のメダルへの憧れだった。04年のアテネ五輪で、当時所属していた社会人チーム、徳洲会の同僚のだった米田功や水鳥寿思が男子団体総合で金メダルを獲得。

2人が持ち帰ったメダルを見た時に、田原は「五輪を近く感じた。『絶対に自分も』という思いが強くなった」という。

当初は08年の北京五輪を目指して体操に打ち込んだが、右肩筋断裂でリハビリ生活が続いていた06年の冬、エアリアルに出会った。

合宿中に仲間とトリノ冬季五輪の競技の様子をテレビで見て、「これなら俺たちもできるじゃないか」と話していた。周囲は冗談交じりだったかも知れない。

だが、田原の心にはそのことがずっと残っていた。春になって体操のシーズンが始まっても頭から離れない。右肩は手術しても北京五輪に間に合うかどうか……。「それならエアリアルの方が可能性があるのではないか」

スキー経験はほぼゼロだったが、腹を決めた!

「体操選手としての感覚が生ら、きるかも」と、かなわなかった五輪の夢を雪上に見た。

転向を決めてからは、苦難の連続だった。所属企業からは社員扱いのまま競技に打ち込むことを理解してもらったが、そもそもスキーの経験がなかった。

「映像を見た時は『直滑降だし行けるんじゃない?』ぐらいに考えていたが、ふたを開けたらとんでもなかった」。来る日も来る日も基本的な「滑る練習」が続いた。

体操の経験で何とでもなると思っていた宙返りも、「技術的にはかけ離れていた」。

簡単にできると思った回転やひねりは「板とブーツで重心が変わるから、体操とは全く違った。なめていた」。スキー板とブーツの重みでバランスが狂い、体が思うように回らない。

さらに、平面に着地する体操と違い、エアリアルは急斜面に着地する。体操の着地動作が体に染みついている田原にとっては、「今でも油断すると出る」というほど、癖を抜くのに苦労した。

10年バンクーバー五輪も、14年ソチ五輪も出場はならず。

それでも着々と力をつけていった田原だが、10年バンクーバー五輪には出場できなかった。14年ソチ五輪の前には会社からの支援も打ち切られ、アルバイトをし、貯金を切り崩しながら五輪を目指す生活になった。ここ6年ほどは、長野・白馬村の民宿に居候し、宿の仕事を手伝いながら練習に励んできた。

冬のマイナー競技を取り巻く厳しい現実

冬のマイナー競技は、資金ぐり等が厳しく、遠征費や用具代のために、大学の卒業記念で買った宝物のオメガの腕時計も売り払ったそうです。

遠征費は全日本スキー連盟からの強化費だけでは足らず、インターネットなどで寄付を募ってなんとか賄う状態。

田原は「競技後の生活は正直言って心配。貯金はとっくに崩し切った。時には貧乏学生のような生活もしている」と笑う。

ただ、どんなに苦しい思いをしても五輪の夢は諦めなかった。年数を重ねるごとに「後に続く子どもたちの環境が少しでも良くなれば」という思いも強くなった。

生活費を切り詰め、家は友人所有の物件に無料で間借り。「貯金もありません。五輪に出たからといっても、それだけで今後どうやって食っていくのか。正直怖い」と漏らしたこともある。夢を追う代償は決して小さくなかった。

それでも、あきらめなかったオリンピックへの夢

「スポーツに人生をかけてきた。だから、やりきったってものが一つ欲しくて。五輪を目標に生きてきて、ゴールはちゃんと五輪でした。胸を張って、そう言いたいんです」

ようやくたどりついた五輪は悔しさだけが募った。「やっぱり勝たないと。力が足りなかった」

41歳で迎える4年後への思いがないわけではない。ただ、重ねた苦労を思うと軽口はたたけない。「環境だったりいろんなことがあるから、『次』とはすぐには言えない」

スポーツに捧げた30年を振り返って、「あきらめずに本気でやり続けたら、何か形にはなるんだと思う」と言った。

昨年3月のワールドカップ(W杯)で7位に食い込み、全日本スキー連盟が定める派遣基準を突破。エアリアルの日本勢では3大会ぶりとなる五輪出場の権利を手にすると、今年1月、平昌五輪直前のW杯では自身2季ぶりの表彰台となる3位に食い込み、「競技転向12年目で、今が一番調子がいい」と自信をもって平昌に臨んでいた。

長年、憧れ続けた舞台で目標だったメダルどころか決勝にも届かず、「この舞台で勝負できたのは大きいけど、やっぱり勝たないと。苦しい五輪になった」と田原。ただ、過去2大会代表を派遣できなかった日本エアリアル界にとっては、大きな一歩でもある。田原も「テレビで見て『やってみようかな』という人が増えれば、僕としてはすごくこの五輪は価値があったのかな思う」という。

五輪を目指す若い選手たちに、どうしても伝えたいことがあった。「やり続けることがいいことだとは思わないけど、本気で競技を続け、諦めなければ何か形にはなると思う」。

メダルに届かず、エアリアル界に「栄光の懸け橋」は懸けられなかったかも知れない。それでも、田原が身をもって示した諦めない姿勢は、後に続く若い世代の確かな道しるべになるはずだ。

すべてをかけてオリンピックを追う姿は心に来るものがありますよね!そこまでの覚悟をもって何かに打ち込める心の強さに憧れます。

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